33億6000万円

話す大人です

「ジュリオ・チェーザレ」


古典オペラでここまでオリジナリティ溢れるキャラ立ちをやってのけ、演技プランもいきいき緻密。見事に面白かった!演出家が「ギャグだろこの話」と思ったシリアスオペラを本当にギャグ仕立てにした名演出という感じ。最近の新国オペラでは「ペレアスとメリザンド」に続く個人的に好きな演出。


新国立劇場ジュリオ・チェーザレ」。パンフレット買いそびれたので、事実誤認も山ほどありそうだが自分の素直な感想で。
バロックオペラは新国立劇場オルフェオとエウリディーチェ」に続く人生2本目。40歳くらいまで比較的安く観られるなら行くか……という消極的態度で新国立劇場に時々行き、気に入らなかったら途中で帰っている。見るのは少なくて年に数本、多くて10本くらい。知識は音楽の教科書程度、つまりそんなに詳しくない。


演出家がとにかくクレオパトラとトロメーオのバチバチ姉弟、それからクレオパトラとニレーノのご陽気主従、トロメーオとアキッラのホモソギスギス主従に萌えているのは明確で、「この話シリアスな笑い系のギャグだと思うからギャグでいきます」という心情と共にキャラ萌えを隠そうともしておらず、それが非常によかった。というかこれらギャグベースのキャラ解釈というか、特にクレオパトラとニレーノを陽気でゆかい、男女だけどシスターフッドみたいな関係だと読み解いて徹底的にほのぼのハジケて演出したのはこの演出家の手腕(というか発明)だろう。ほかにジュリオ・チェーザレ見たことないので、違っていたら教えてください。
本当にクレオパトラ・ニレーノ・トロメーオのコメディリリーフぶりはすさまじいものがあった。本当にオペラ・セリア?と何回疑問に思ったかわからない。客席からもいっぱい笑いが起きていたぞ。


古代ローマ・エジプトの物語が、現代の博物館のバックヤードにて展開される。博物館の客?や従業員も入れ替わり立ち替わりやって来るなかで、ジュリアス・シーザークレオパトラがどったんばったんする。イメージとしては「生者には基本見えてないナイトミュージアム」という感じだと受け取った。客や従業員に歴史の亡霊たちは基本見えておらず、しかしたまにこの亡霊たちは展示品のようにポーズを取ったり、ガラスケースの中で静止したり、ラストには総出で客を見送るような構図をとったりもする。
武器は展示品の箱から取り出すし、飛行機から降りるときのようなタイヤつきの階段で高いところからおりるし、死体はバックヤードにあった手押しの運搬車でごろごろ超スピードで運ぶ。死んだポンぺーオの骨壺の前で歌われるソロなど、展示品のツボにチェーザレがまとわりついているのだ。ハーレムのシーンでは展示品の木箱を積み重ねて高座もどきを作り、絨毯をそこらじゅうに吊るしたり敷き詰めたりして、おままごとのようにお粗末な空間を作っている。だからこれは亡霊の夢でしかないのだとよくわかる。
しかし撒き散らされたじゅうたんは従業員たちには見えていて、頭を抱えてみんなで片付けている。トロメーオが道をふさいでいれば、従業員がどんなに押しても台車は止まってしまう。(このあたりの詰めに詰め込まれたアイデアがなんとも好印象である。)だから、彼らはたちの悪いポルターガイスト、残留思念みたいなものなのだろう。


歴史上の登場人物たちが、思念のかたまりとして、夜な夜な茶番を繰り返しているような、博物館の景色に宮殿や浜辺、戦場や牢獄の幻想をオーバーラップさせながら、かつては深刻だった命のやり取りを、滑稽にもきわめて真剣に演じ直し続けているような趣がある。従業員たちを彼らは自分達の茶番の装置として使うこともあり、従業員たちの姿を意のままに操り(影みたいなものかな)兵士役をやらせたり、死体を片付けさせたりする。博物館のバックヤードという、きわめて狭い場を支配するちからをもった歴史的幻想なのだ。
(目が悪くてカーテンコールのときまで気がつかなかったのだが、みんな作り物みたいな白塗りメイクをしていた。なぜかクレオパトラだけ例外だったが……亡霊性の示唆、生者性の棄却を表していると考えていいのかな?)
しかしこの「追体験」のしくみは、「ペレアスとメリザンド」の夢演出にも非常に通じるものがある。私の好みが似かよっているだけかもしれないが……下書きずっとためてるのでそのうちこれの感想もアップするかもしれません。


場面設定は極めて奇妙なのだが、ちゃんと必然性がある。そのひとつがたぶん滑稽さなのだ。キャラクターを愛し、喜劇っぽさを強調して書くならば、普通に死人がバンバン出て命の取り合いもする本作ではどうしても矛盾する部分も出てくるが、もうすでに終わった物語、失われた命がわかりきった結果のもとで繰り返す茶番なら、それがハタから見て滑稽でもいいだろう。
これはとくにコルネーリア親子による復讐の完遂、トロメーオ殺害のシーンであまりに露骨だった。トロメーオは親子にはさみうちにされてアワアワし、カエルの断末魔みたいな変な声でマヌケに叫んでべしゃっと死んだし、大きな笑いが起きた。丁寧に丁寧にそれまでの幕でもおふざけキャラとして描かれてきた悪役トロメーオだが、それは完遂された。
家族を奪われて悲しみにくれ、復讐に燃えるだけのコルネーリア親子が自主的にコメディに参戦することは本演出でもまずなかったが、復讐対象の死は容赦なくコメディなのだ。


ただ、喜劇的というのは必ずしも演出家の好みだけから来るような話ではない。(つまりここにも必然性がある)。
第一に、ドラマとしてどう作るかという問題だ。そのままやればまあ上品ではあるだろうが、そもそもチェーザレ、タイトルロールのわりになにもしてないし何なん?という印象はまずある作品なのだ。チェーザレクレオパトラ、そしてコルネーリアとセスト親子の3勢力の目的がそれぞれ「トロメーオを倒す」でしかなかった中で、トロメーオ殺害はコルネーリア親子がやってのける。チェーザレなんもしてへん。工夫しないとつまらなくなりかねない。
そしてバロックオペラの特徴か(オルフェオとエウリディーチェも割とそんな感じだった)2行くらいの詩を5分10分延々繰り返すだけのアリア、みたいな曲が大量発生している。合間合間に歌のないオケのみ演奏もオルフェオ……ほどじゃないにせよけっこうある。重唱もビックリするくらい少なくソロ重視。アンサンブルは一幕終わりのコルネーリア親子と、あと本当にフィナーレのメインカップル(チェーザレクレオパトラ)だけじゃないかな。合唱の歌唱箇所もきわめて少ない。つまり普通にやったら(一部のマニアを除き)かなり飽きるし眠い演目だと思う。合唱の人件費ももったいない。ボリュームもけっこうある。これを目の肥えた、初演当時と常識も異なる観客の前で飽きさせず、楽しんでもらえるように作るにはどうしたらいいか?
本演出はかなり見事にそれを克服していた。ずーっと誰かがなにかやっている。舞台にはなにかが起きている。歌詞だけに頼らない、演出が見いだした生き生きした世界の新しい情報が演技や小道具で毎秒入ってくる。合唱をしっかり使っていたのもなんともよかった。楽しく見応えのあるものを作ろうとした結果に見える。


第二に、上で述べたように「喜劇的に作る余地がある部分が実は多い作品だ」というところだ。クレオパトラの語り口や挙動は歌詞をなぞるだけでもけっこうオモシロで、冷静に観るとまず異様に切り替えが早い。爆速で調子に乗るかと思えば、次の瞬間にはチェーザレが死んだと思ったり弟に失脚させられかけたりで爆速でしょげ「もう死んでやる~~~!!!」とたっぷり悲嘆に酔ったアリアを歌いまくる。展開がとにかく早くて急なのが原因なのだが……
この切り替えはリアルだが、コミカルでもある。
調子にのっているときのクレオパトラはめっちゃ煽る。初登場時に「王になれなくてもあんたには愛(女遊び)があるでしょうが♥️」と弟を煽り立てるアリアは完全に喜劇。ここに演出家は、クレオパトラを高いところに配置、悪口言われてとびかかろうとするトロメーオが登ろうとしては失敗し、クレオパトラにゲラゲラ笑われながら繰り返しはたき落とされる絵を作った。客席は爆笑で、このシーンあたりから喜劇色があからさまになってきたといえる。
死んでやるアリアの中でも「死んだら死んだで化けて出て弟をきりきり舞いさせてやるからな」と唐突な不屈マインドが顔を覗かせたり、やっぱりなにか笑えてしまう。
身分を隠して侍女を装っていたはずが、何かあるとすぐ「この女王クレオパトラが!」と名乗りをあげてしまって「やだ私ってば~」でごまかしたり(ごまかせなかったり)、素で面白すぎる。
これら、自然に感じ取れるコミカルさを殺さないように素直に、と志向した結果コメディタッチになったのだろう。クレオパトラ、調子に乗るとすぐ踊り出すのでと~ってもかわいかった。
ニレーノとトロメーオがカウンターテナーの役どころなのもいい。キャスト表を真面目に見なかったのでかなり舞台が進むまで両方とも演者は女性だと思っていたくらいだ。重々しい男声ではないので、軽めの物語に仕立てやすかった部分はあるかも。


もうひとつは場面転換の必然性だ。本来であればチェーザレ陣営、エジプト王の宮殿、チェーザレの居室、トロメーオの寝室、コルネーリアとセストの動き、獄中のクレオパトラチェーザレの流れ着いた浜辺等々、めちゃくちゃ色々な場所が必要なはずなのだが、相当お金と技術(説明力)がなければ入れ替わり立ち替わりの場面を逐一表現するのは困難だ。アイーダより金がかかるかもしれない。その点本演出ではその必要がない。亡霊たちがめいめい勝手に好きな風景を幻視して、バックヤードのありものでそれらしい展示品を使ってままごとをすればいいからだ。大変省エネだ。
なかでも、トロメーオとクレオパトラの権力闘争(一瞬で決着)を合唱たち(博物館従業員たち)による騎馬戦でサッとすませたのはしびれた。抽象的にしてしまえば短くても説得力が出る。
また、一幕ラストは本当に良くできていた。セストが捕らえられ、牢屋に連れていかれそうになったところでコルネーリアが「せめて最後に息子を抱き締めさせて」と嘆願し聞き入れられるのだが、そこで取り押さえ役の合唱がみんな退場してしまい、ふたりはかなり長尺の2重唱をやる。えっもしかして普通に解放されたの?とすら観客が疑い始めた頃、ふたりは車輪のついたブロックのようなもの(2つ繋がっている)の左右に腰掛けて歌う。
最後はその両端を博物館従業員がひとりずつ掴み、ゴロゴロ引きずって袖にはけていく。二人は座ったまま自然に引き剥がされる。いいやり方だなあ、と思った。


演技上の功労者(特にいきいきした命を吹き込まれた役柄)はやはりなんといっても繰り返すがニレーノ・クレオパトラ・トロメーオ。ニレーノは本当に筆頭だ。たぶん演出家のオリジナル成分がもっとも含まれているのでは。なんかいつもエジプト壁画のポーズしてたし、ちょっとしたポーズ、ちょっとしたツッコミの全部が面白いキャラだった。クレオパトラとの関係性が絶妙に仲良しかつコミカルで最高主従だし、最後に全員で観客を見送るところはトロメーオの硬直した死体をキャリーみたいなのに乗せて(立たせて)ギュン!と観客の前に引っ張り出して"真の全員集合"の体を取ってくるしで面白すぎた。死体を雑に扱うと笑いが起きるようなコメディプロダクションだったことを感じ取ってほしい。


あと、博物館の搬入口?みたいなところが開きっぱなしになって砂がいっぱい吹き込んでくるような場面があったのだが、その向こうにピラミッドが見えた。これは博物館の所在地がエジプトだよ、というエクスキューズかな、と思い、だとしたらかなり感心するなと思った。大英博物館とかの「簒奪先」で再現劇が展開されている訳じゃないという表現というか。
去年の新国ニュルンベルクのマイスタージンガーは「この設定(女の賞品化、意思決定機関は男のみ)を批判ニュアンスもなくそのまんま2021年設定で上演する」ということにドン引きして1幕で帰ってしまったのでこういうところに神経通っててくれると安心する。お門違いかもしれないが。
(全幕みたら印象違いましたか?ワーグナー作品を差別的目線から救うのはそもそも不可能に近い話かもしれないが、ニュルンベルクの戦争裁判を引いたりベックメッサーへのユダヤ人差別文脈を批判的に描いた演出がすでにあるのだから、足掻くくらいはできるはずだ)

 

「なんでその設定でやりたいのか」「その設定でやりきれるのか」の答えをきちんと出せているか(後者を無理矢理にでも「イエス」にする必要があるのは言うまでもない)が読み替え演出において本当に大事だなというのは何度も痛感した。
作曲家や保守的な観客と殴り合ってでも面白いもの、納得の行くものを作ろう!というパッションが感じられ、演者一人一人の演技プランが細かく練られていて、舞台上にいるすべての人間の一秒一秒に神経が通っているプロダクションはやっぱり「いいもの見たな」と思って帰れる。面白かった!ありがとうございました。


再演してほしい!スッゴい大変だろうけど!