33億6000万円

話す大人です

選挙ボラと自分のタブー

後学のために選挙ボランティアに行ってみた結果、自分の中に刷り込まれた恥の意識みたいなものと改めて向き合うはめになった。センシティブな記事なのですぐ非公開にするかも…ちょこちょこフェイクを入れています。

 

先日というか10月末にたまたま休みを取る予定があったので、タイミングよく衆院選間近、何か選挙とか投票行動に関わることをしてみようかなという気になった。東アジアの先進国の都市部に女として生まれて、いろんな人と関わって、選挙にも暮らしにも社会にも人生にも言いたいことはいつも山ほどあって、明日がちょっとでも良くなるってなんだろうどうしたらいいんだろうと思っていた。投票と寄付(国連難民高等弁務官事務所に毎月少し寄付している)以外にできることがあるならやってみたかった。Twitterで検索すれば(日々の情報の全てをTwitterで得ている)選挙ボランティアは普通に歓迎してくれるらしい。

人権重視、福祉国家寄り、学問重視、夫婦別姓同性婚賛成の党が良かったのでそれに近いところを選び、居住地から一番近い事務所に「ボランティアをさせてもらいたいんですが、お手伝いできることはありますか」と電話をかけた。年配の男性らしい方が応対してくれて「非常にありがたいし、良ければ明日街宣があるからその手伝いをしてほしい」と言われた。

ありがとうございます行きます、と返事をしたが、この時点で既に「この電話をしなければ私は将来この時の自分を社会変えたがりのくせになんもできねー腰抜け野郎と思っただろうし、かといって明日ボランティアにいけば将来の私はそれをしょっぱい気まずい思い出として処理するだろう」という予感を持った。

 

というのも、前回の衆議院選挙の時も近い気持ちで街宣にわざわざ行ってみたり、自分の住んでる地区の候補のビラを事務所へいって2〜30枚もらい、近所にポスティングしてみたりしたことがあった。このことは私にとっていつも「間違っていたとは思わないが、人に話すのは恥ずかしい気まずい思い出」であり、思い出すとちょっとウッてなる。なんというか「勝ち目の薄い告白をやっちゃった」ときの後々引きずる気持ちとそっくり。他人からの評価を一番気にしているところも含めて。ボランティアなんてさらにそんな気持ちになるに違いなかった。

なんでだろう。私は普段からあらゆる個人が尊重されることや女の人生がより良くなること、貧しい人間の人生を引き上げること、家父長制がぶっ壊れることなどを「そうなるべき世界の形」として公言してはばからないのに、その主張に党派性を帯びさせる(政治的になる)ことへの及び腰、恥の意識のようなものがどこかにある。「後学のために」とか「選挙なんてしょっちゅうあるもんじゃないから、お祭りみたいなものですよ コミットできるとこまでコミットしてみたいじゃないですか」みたいな言葉で私は多分ボランティア参加の動機をいつか語ろうとするだろうし、それはある程度本心でもある。しかし本当の本心は「○○党支持者だと思われたら恥ずかしい」の気持ちだ。

でもパブリックな主張は最終的に党派性のある世界(政治の世界)で主張されることになるし、つまり党派性を帯びることを選んだ人たちに私は自分の主張を投票によりしばしば仮託しているわけだ。なんか恥ずかしいのよ言わないよ党派性を帯びないよと言って私は他人にずっとそれをやらせてきたわけだ。ずっとそれではあんまり良くないと思った。無意識の恥をすぐには捨てられなくても、一度向き合ってみないといけない。

 

お邪魔したのは共産党の事務所だった。ご一緒させてもらったのは男性も女性も全員60代以上だろうという方々ばかりで、40年選手だという人も珍しくなかった。とても快く接してくださった。ちゃきちゃきして、人の良さと怒りのパワーが両方感じられる人達だった。

街宣の横でビラを配って、そのあと学生さんの多いところへ移動してジェンダー平等に関するパンフレットを配った。街宣に来ていたのは私がかなり好印象を持ってる議員さんだったので応援してますと言ってツーショット撮ってもらった。

私はがんばって配布物を配ったし、実際かなり配れたし、来ている議員さんは個人的にも思い入れのある印象のいい人だったのに、しかし私はやっぱり「何か恥ずかしくて」揃いの蛍光色のパーカーが着られなかった(服として着たいものではなかったにせよ)し、どうぞと差し出してもらった共産党の腕章もつけられなかった(手で持った)。信じられないほどバカにされコケにされ、まともでない受け答えをされ、それでも必死で誠実に福祉を平等を求めてぶつかり続ける集団のひとつという好ましい価値判断を私はこの党に対してかなり抱いていて、なのにこんなに頑張り続けてる人達に対して「一緒に見られたくない」というような気持ちを持っていて、主張を書いた大きなプラカードへの気恥ずかしさみたいなものもあって、その気持ちこそ恥ずべきですらあるのにこりゃ本当になんだと思いながら立っていた。

 

ただ思い返せば、大学のサークルとか会社でも似たような気持ちになってたなそういえば、と思う。サークルにどっぷりだとか愛社精神旺盛とか絶対思われたくないって気持ちがすごくある。党派性への恥ずかしさ、これも多分この類型ではないかと思う。「心酔してると思われたくない、所属ある人と思われたくない」とか「イケてない奴らが群れてんなと思われたくない」のだたぶん。つまり党派性とは帰属性の中に含まれる概念だといえる。帰属している、染まっているという表明がイヤなのだ。バリ自分語りだが自分が恋愛に対して「恥」という感覚を強く抱いているのもこれが原因な気がしてきた。

でもそういう人って多いんじゃないかな。"推し"に心酔してファンコミュニティを○○クラスタ最高〜‼️ってたのしく狂える人もいるけど、そういうのマジで無理ダセェって人もかなりいるのではないか。愛社精神旺盛だなって絶対言われたくない人、結構いるのではないか。明確な帰属が、その表明が恥ずかしい(ダサい)。個人主義とリンクした感情かもしれない。ダサさがより忌避される空気感もあると思う。ふりかえって「ダサい自分は嫌だ!」と私はものすごくものすごく思っているのだと痛感する。

 

人が避けていく閑散とした中での演説、ほとんどお年寄りしかいない二桁人もいない集団。何か居心地悪い、と思うのはしょうがなかったかもしれない。でも古くなった車、手作りのポスター、それを固定するためのペットボトルに水をつめたおもり、そういうもので(つまり手元で賄える精一杯の手段で)ずっと社会と理想を見据えて必死に活動し続けている人をバカにするのは絶対したくないな、何か力になれるなら、そういう気持ちは私にも流石にある。とはいえ「ダサい」「みすぼらしい」と思われるようなものに今の人は多分目を向けてくれないだろうとも思う。だからといってじゃあおまえがプレイヤーとして正式にそこに参加してそれを変えていけるか、と言われるとあの「恥」の感覚が立ち現れ、それを止めさせる。この見栄っ張りがよ………………………………アクションを起こしてる人の方が確実に偉いです。投票だけするのはいやだな、と思ってわざわざ電話までかけて知らない人たちの中に飛び込みボランティアで参加しながら私はどこか「当事者」になることを避け続けていた。

 

ただ、ただの帰属性への恥ずかしさだけではなく「いわゆるリベラル系野党」固有の気恥ずかしさと、さらに進んで「共産党」固有の気まずさも自分の中には確実にあると思う。前者は特にインターネットで揶揄されすぎた。悪意を浴びすぎて、明らかに投票するならそっちという私でさえおおっぴらには表明しにくくなってしまった。これは怖いとかじゃなくて「何か恥ずかしい、言いたくない」という内面化された抑圧の形で現れている。立憲民主を超突貫で作ったときの枝野幸男の超かっこよさ(あれ衝撃的だったんだよ)をあの演説のうまさをよーく知っている私でさえそう思ってしまう(立憲は最近マイナス点を稼ぐことが多くしょっぱいがマジでとんでもない与党と維新とは比べるべきものですらないという所感である この所感の表明にすらある程度以上の勇気が必要だった)

そして後者はもっと歴史的に苛烈に貶められつづけている。ほとんどタブーのような団体名としてのイメージづけをされ続けている。やばい宗教団体くらいに思われている。あまりにも激しい弾圧の歴史に「そこまでぶっ叩かれるなら関わらない方がいいんだろう」と思い込む意識と、無意識の意識がそこには生まれ続けている。(ニューヨークタイムズで「ただの民主主義・反戦・経済的平等のオーソドックスな党ですね日本共産党は」とスッパリ書かれてる記事Japan’s Communists Are Hardly Radical, but Make a Handy Election Target - The New York Times)今一番まともと思っていても(社民党もめちゃくちゃ応援しているが……)親兄弟に「今日共産党の手伝いしてきた〜‼️」と私は言いにくいだろう。そこには確実にスティグマというか、しみついた"ヨゴレ"のイメージがある。そういうの全然ない人はマジでそのままでいてくれ。同年代の、ある程度リベラルな子の前でくらいしか言えないかも。あとはショック療法的にご近所さんとかにいえるかも…?どうだろう。

 

街宣はちっともうるさくなかったけれど、「悪意」としか言いようのない態度やあからさまにイヤそうな態度をむけてくる人もかなりいた。温かい人の方が少数派。「何か言いようのないイヤさ」を共産党に感じているのだ、という印象を感じとった。それはタブー意識と、先述の"一種のダサさ"への忌避感、このあたりのブレンドだったんじゃないかなあ。若い子たちの近くに行った時はこの後者をより強く感じた。おじいちゃんおばあちゃん集団がでかいプラカード掲げて何か小さい声で言いながら紙を渡してくることに「ヤバ」みたいな。前者の気持ちもあっただろうけど。ただ共産党ジェンダーパンフレットはよく出来ていて、ミモザを表紙にあしらった綺麗なデザインで(普通にセンスある)、ジェンダー平等に関することだということだけ書いてあって、党名も記載はしてあるけどサラッとしたものなので党派性も攻撃色も薄い。それだからか、差し出すとかなり貰ってもらえた。特に女の子には。はっきり言ってこの社会じゃ女はどこまでも二級市民扱いされてる風味がやっぱりあちこちで香るから、それを感じとってイヤだなと思っている人はいるので……

 

総括すると党派性のこと、帰属性という面からでも政治性という面からでも忌避する感情がいろんな人に強いんじゃないかなと思う。散々書いてきたように、私もそういうのがすごく苦手みたいである。

「ダサくなくて党派性が薄く、主張はある」ものを私たちは求めているのかもしれない。なんという贅沢なんだろうか。ただとてもマーケティング的ではある。

 

これからもたまにボランティアは行けたらな、と思う。でもなにか党派性を帯びたところに所属したいとはまだ思えない。常任お手伝いさんにはなれない。そのハードルはまだ越えられない。その恥ずかしさは、そんなものを感じることこそ恥なのか、越えなきゃいけないわけじゃないならどう付き合えばいいのか。はっきり言ってわからない。とても困っている。でも、最初に書いたように、人にやらせ続けるのをずるいと思ったのなら、「きてくれるだけでもありがたいよ」と言ってもらえる限り、自分がふんわりとでも力になってみたいところにはつまみ食いのように手を出し続ける、自分の恥と自分の義憤との付き合い方は今はこれしかなさそうなのだ。本当にどうしよう…………

 

(余談として、日本共産党はいまやただの福祉と平等を資本主義の中で目指す党っぽいが別に社会主義を完全に捨てたわけじゃないというのは聞いて面白かった。あと中国のことは「あそこは社会主義の国じゃない もう理想から遠く離れた別の何か」と定義してるらしい。考え方としては「議会制民主主義の果てに社会がそれを選ぶなら社会主義に近づいていくことがあり得る」ということらしくキモは民主主義を守り抜くことにあると。とにかく資本主義が無法地帯になっているなら労働時間にせよ福祉にせよ、そこにルールを作っていくというのがまずは目指すステップなんだと。要するに福祉国家、「大きい政府」的なことなんだなと私は受け取った。終着点はあまりにピュアな理想だ。難しいだろうと思うし、社会主義経済に私は共鳴しないけど(ド金持ちになりたいから)でも「どんな人でもよりよく生きられる社会にしたい」という理想は私も持つものだ。理想を笑ってはいけない。まずは理想を、最高のきれいごとを掲げなきゃ何を目指すにも話にならないから………)